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『急性期病棟での2ヶ月』                          LINK事務コラムvol.13佐野

こんにちは!佐野です

以前のコラムで事故に遭った事は書いてみましたが
今回は搬送されてから急性期での事を簡単に書いてみようと思います。

面白い話では無いので退屈かもしれませんが、
当時21歳の僕にとっては入院も初めてで驚きの連続でした。

事故して救急車で大阪の病院に運ばれたのですが
頭を強く打っていて事故の記憶はもちろん、事故前の記憶もまばらで、
断片的にしか覚えていませんが、母が手記を取ってくれていてそれを見せてもらうと思い出したりしました。

まず目を覚ましたらよく言う病院の天井でした。

右手は複雑骨折でギプスで、胸から下と左腕の感覚もなく、呼吸器のマスクで鼻からは栄養剤のチューブがあり「あー大変な事になったな」と他人行儀に考えていました、今思うと現実を受け止めたくない防御反応だったのかもしれません

それが事故後2週間ほど経った時です
それまでは、首の左半分の左腕の神経と動脈が切れていて、今目を覚ますと痛みで死ぬからと眠らされていました、左の動脈は今も繋がっていませんが不便なく生きています。

急性期の病室は
普通の病院と違って色んな機械があって、ドアも足でボタン押して開ける自動ドアで
目が覚めてからはMDコンポを持ち込んで部屋で音楽を聞けたりしてました

目を覚ました時は、気節切開していたので話すことができず、手も使えないので文字盤を使って
頷きで「バイクはどうなったか?」「みんなはどうしてる?」と質問していたと母の手記にありました、その後肺に水が溜まっていたので両肺に管を刺して水を抜き肺炎も治り回復に向かっていましたが
医者から脊髄損傷という告知を受けて現実を知りました。
元々バイクが好きだったのでバイク事故で半身不随等の事は知っていたので、「やってしまったな」という感じで受け止めれましたが、少し悩みました
結果悩んでも治らないので身体のことで悩むのはやめましたが
絶望感はありました、と同時に新しい事が始まるというワクワク感もありました

長くなってきたので次回に持ち越しますが

次回は栄養剤のチューブと気節切開を外して初ゼリー食べた事から転院までを書きたいと思います。

ps: ウェブ担当小川です。
いかがでしたか??今回のコラムは
ぼくは、先天性の障害で生きてきましたが、事故にあうまでは普通に生活してて
その事故きっかけに人生が180度変わったとおもいます。
今まで普通にできていたことができなくなるなど、凄く絶望的だと思うのに
新しいことが始まるワクワクって、、めちゃくちゃ強いとおもいませんか??
事故後の手術の写真を見せてもらったことがありますが、
言葉じゃ表せません、人間ってここから治るんだとすげーって思ったのを
覚えています。
そのような辛い事があったからこそ、今社員の一人一人の気持をすごく大事にしてくれたり
背中の大きい人なんだと思っています。

今回のトップの写真は、入院中の写真です
仲間からの千羽鶴なんか感動ですね、
それよりなにより、入院中にもかかわらずマジイケメン!!
びっくりします(笑)これからもカッコイイ社長でいてくださいね。
次回のコラムは金曜日です

See you next time!!

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